ANAのSFCは、これからどうなっていくのでしょうか。
そのことを考える前に、私がなぜ飛行機に魅せられ、マイルを貯め、SFCを持つようになったのかを、何回かに分けて振り返ってみたいと思います。
今回は、まだ国内線にマイル制度がなかった頃のお話です。
「ANAの航空券を持ってJALのカウンターへ行き、そのまま飛行機に乗る」
今の感覚からすると、「何を言っているの?」と思われるかもしれません。運賃ごとに変更条件が細かく分かれ、マイルや上級会員ステイタスによる囲い込みが当たり前になった現在では、考えにくい話です。
しかし、昭和の終わりから平成初期の東京(羽田)〜大阪(伊丹)線では、それが特別なことではありませんでした。
出張の多い会社員や旅人たちが、どのように新幹線と飛行機を使い分け、どんな工夫をして空を飛んでいたのか。25年以上SFCを維持してきた私の原点でもある、当時のリアルな空の旅を振り返ります。
(※何十年も前の古い記憶を辿りながら書いているため、細かな制度の名称や数字など、一部記憶違いがあるかもしれませんが、当時の空気感として楽しんでいただければ幸いです。)
1. 会社の新幹線を売り、自腹で飛行機に乗った理由

今だから言える時効の話ですが、会社が指定した交通手段を使わないのは、明確な社内規定違反でした。もちろん、今振り返っても人に勧められる行為ではありません。それでも当時の私は、時間を自由に使いたい一心で、こんな無茶をしていました。
当時、私の勤務先が出張用として支給してくれたのは「新幹線のチケット(指定席回数券)」でした。
東京〜新大阪間の所要時間は、主力の「ひかり」で約3時間〜3時間15分。1992年に登場した「のぞみ」は約2時間30分と画期的でしたが、当時は本数が少なく特別な特急料金(加算料金)が設定されていたため、多くの企業と同様に社内規定で「ひかり限定」と決められていました。決してケチな会社だったわけではなく、それが当時の社会全体の常識だったのです。
しかし、この新幹線出張には大きなストレスがありました。
仕事が予定より早く終わったり長引いたりして指定席の時間を変更しようとすると、東京駅のホームで「自由席の座席を確保するための長い行列」に延々と並ばなければなりません。3時間以上座席に縛られる疲労感に加え、この並ぶ時間そのものも大きな時間のロスだと感じていました。
「空港への移動や待ち時間を合わせれば、新幹線も飛行機もドア・to・ドアの所要時間は約3時間でほぼ同じ。それなら、途中で歩いて気分転換ができ、自由席の列に並ぶ必要もない飛行機のほうが圧倒的にラクだ」
そう気付いた私は、会社から支給された新幹線チケットを金券ショップへ持ち込み、現金化するようになりました。
新幹線のチケットを売ったお金に、自分の財布から700円ほどを足せば、金券ショップの店頭に並んでいた格安航空券(株主優待を活用したオープン券)が手に入りました。
関ヶ原の雪と、東京の上司の「粋な計らい」
会社に内緒で乗っている以上、一番怖かったのは天候や機材トラブルによる「遅延」です。東京の出張先に遅れるわけにはいかず、搭乗口を通る時はいつも「何事もなく定刻通り着いて!」と祈っていました。
ところがある冬の日、東京本社に着いた私を出迎えた上司が、驚いた顔でこう尋ねてきたのです。
「あれ? 新幹線、雪の影響で関ヶ原あたりで大幅に遅れていたはずなのに、よく時間通りに来られたな」
私は一瞬「何のこと?」とちんぷんかんぷんでしたが、遅れて理解した瞬間、全身から冷や汗が噴き出しました。飛行機で飛んできたことがバレてしまう――。
上司が本当にどこまで察していたのかは分かりません。ただ、私の様子を見てもそれ以上は何も聞かず、そのまま仕事の話に戻ってくれました。あのときのことを思い出すたび、今でもありがたかったと思います。
2. スマホのない時代、お守りは手帳に貼った「切り抜き時刻表」

▲ 当時、空港カウンターや旅行代理店で毎月配布されていた「全日空時刻表」のイメージ。この中から「羽田―伊丹」のページだけを切り取り、手帳に貼っていました。

※写真は、当時の使い方を再現したイメージです。必要な路線の時刻表を切り取り、システム手帳に貼って持ち歩いていました。
当時はスマートフォンもなければ、乗り換え案内アプリもネット予約もありません。出張族がどうやって飛行機の時間を把握していたかというと、すべて「紙の時刻表」でした。
空港や旅行会社のカウンターには、ANA、JAL、東亜国内航空(TDA、のちのJAS)が毎月発行する手のひらサイズの薄い四角い時刻表冊子が置かれていました。
私はその冊子から「東京(羽田)⇄ 大阪(伊丹)」のページだけをハサミで丁寧に切り取り、システム手帳の見返しにセロハンテープで貼り付けて携帯していました。
仕事が予定より早く終わると、サッと手帳を開きます。
「予定より1時間早く終わった。今からモノレールに乗れば…16時30分のJALか、16時45分のANAに間に合うな」
手帳の小さな数字をボールペンの先で追いながら、羽田空港へ向かうモノレールに飛び乗る。それが当時の私のルーティンでした。
どうしても混雑しそうな時間帯にあらかじめ席を確保しておきたい時は、金券ショップで買ったチケットを街のJTB(旅行代理店)窓口へ持ち込み、事前に座席指定の予約を入れてもらうこともありました。
3. カウンターの赤いカーボン紙|ANAの切符でJALに乗れた仕組み

JALカウンターでANAの切符を出す
空港に着いたら、電光掲示板(パタパタと文字が回転する反転フラップ式案内板)を見上げます。
手元にある航空券が「ANA」のものであっても、目の前で一番早く出発する便が「JAL」であれば、迷わずJALのカウンターへ直行しました。
窓口で「このANAの券ですが、次のJAL便に乗れますか?」と差し出すと、JALの制服を着た地上係員さんは嫌な顔ひとつせず、手慣れた手つきでチケットを受け取ります。
当時の国内線航空券は、薄い紙の裏に赤いカーボンが塗られた横長の複写帳票でした。係員さんはその裏面の所定欄にボールペンでスラスラと他社変更コードやサインを手書きし、確認スタンプをポンと押して、その場ですぐにJALの搭乗券を発券してくれたのです。
なぜ、ライバル会社の飛行機にそのまま乗れたのか?
普通運賃のオープン券だったため、他社のカウンターで所定の手続きを受け、空席のある便に変更してもらうことができました。一般には「エンドース」や「裏書」と呼ばれていた仕組みです。成立していた背景には、主に3つの事情がありました。
- 幹線の普通運賃が各社ほぼ横並びだった
当時は国の認可運賃が基本で、航空会社による価格差が今ほど大きくありませんでした。 - 国内線ではマイレージによる囲い込みがまだ始まっていなかった
ANAとJALが国内線へマイレージを導入したのは1997年。それ以前は、現在ほど一つの航空会社を選び続ける動機が強くありませんでした。 - 持っていたのが普通運賃扱いのオープン券だった
すべての航空券が他社便へ変更できたわけではありません。私が金券ショップで手に入れていた券は、他社便への変更手続きができる種類のものでした。
4. おおらかな時代と、失われた「究極の自由」
1990年代後半から、規制緩和によって航空会社ごとの割引運賃が増え、1997年には国内線でもマイレージサービスが本格的に始まりました。価格もサービスも会社ごとに違う時代になり、利用者は少しずつ「どの便に乗るか」だけでなく、「どの航空会社を選ぶか」を意識するようになります。
日本の空の旅は、ここから現在にかけて大きく3つの時代へと移り変わっていきます。

運賃に差が生まれ、自社グループへの囲い込みが激化したことで、他社便へ自由に飛び乗れるシステムは静かに姿を消していきました。
航空券は格安で買えるようになり、マイルや上級会員制度といった新しい楽しみが生まれた反面、私たちは「空港に着いて最初に来た飛行機に飛び乗る」という、おおらかで究極に自由だった旅のスタイルを手放したとも言えます。
自由に航空会社を選んでいた私が、やがてマイルを貯めるために一社を意識するようになり、最後にはANAのSFCを持つことになります。
SFCを25年以上持ち続けた今、その恩恵は当時から大きく変わりました。これからSFCがどうなっていくのかを考えるためにも、もう少し私と飛行機の歴史をたどってみたいと思います。
次回は、最初に選んだのがANAではなくJALだったこと、そしてマイルよりも日航ホテルの食事券に心を動かされた頃のお話です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました! 今後も旅の情報とともに失敗談も書いていきます。どうぞよろしくお願いいたします!
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